「一度でいいから、行ってみたかったんだよな」
椎名はパスポートを握りしめながら、ぼそっとつぶやいた。
目の前には大きな空港の搭乗口。
行き先は――「アイザワ共和国」だった。
「え、それどこ?」と友人には言われたけれど、椎名はずっと憧れていた。
教科書にも地図にも載っていない、伝説の国。
行けるはずがない。
でもどうしても行きたかった。
「じゃあ、俺が案内するよ」
そう言ってきたのが、旅行会社の男だった。
名刺には「異世界旅行センター」と書いてあった。
「え、異世界?」
「そう。アイザワ共和国は、この世界にはないんですよ。でも安心してください。最近は異世界渡航も簡単になりましたから」
「……まじで?」
椎名は、その場で契約書にサインした。
※
目を覚ますと、椎名は「アイザワ共和国」にいた。
赤い空に、青い湖。空気は甘い香りがする。
「現実感がないな……」と思いつつも、心は高揚していた。
「椎名さん。よくぞ来てくださいました」
現地ガイドと名乗る男がやってきた。
「私がこの国を案内します。何でもお申し付けください」
「へぇ……本当に異世界ってあるんだな」
椎名は、夢のような観光を楽しんだ。
巨大な水晶の塔を見上げ、砂糖のような雲を食べ、動く絵画の博物館を巡る。
「これ……最高じゃん」
※
ある夜、ガイドの男がこっそり話しかけてきた。
「実は、椎名さんにお願いがあるんです」
「ん?」
「ここに来たからには、ひとつだけ守らなきゃいけないルールがあるんですよ」
「え、何?」
「“永住すること”です」
「……は?」
「異世界観光の裏ルールです。一度来たら、帰れない。それが決まりなんです」
椎名は顔をひきつらせた。
「でも……そんなの、契約のとき聞いてないぞ」
「ちゃんと書いてありましたよ。“小さい文字”で」
「……おい」
「ご安心ください。永住すれば、もっと素敵な場所にも行けますよ。例えば、魂だけになって楽しむ“無限遊園地コース”とか」
「ふざけるな……俺は帰る!」
椎名は男を突き飛ばし、逃げ出した。
※
だが、空港はなかった。
元の世界に戻る道は、どこにもない。
椎名はガイドたちに捕まり、特殊な「転生装置」に運ばれた。
「やめろ!俺はただ、観光に来ただけだぞ!」
「すみませんね。でも、異世界ビジネスってこういう仕組みなんですよ。新しい住民が来なきゃ、この世界は維持できないんです」
「……裏切ったな」
「最初から、そのつもりでした」
※
椎名は装置に入れられた。
全身が光に包まれ、意識が遠のいていく。
「頼む……せめて、もう一度だけ。人生で一度でいいから、日本に帰りたい……」
※
――目を覚ますと、椎名は自分の部屋にいた。
「……夢だったのか?」
しかし、スマホを見てゾッとした。
カレンダーの日付が、異様に未来だった。
100年後の日付が表示されている。
ニュースアプリを開くと、画面には見慣れない国名が並んでいた。
「アイザワ共和国、また国民増加」
「異世界観光ツアー、本日も大盛況」
椎名は顔を青くした。
「……え?」
ふと、自分の腕を見ると、肌に見慣れないマークが刻まれていた。
【住民コード:アイザワ-0241】